浦沢直樹せんせいがどれだけ凄いかを、
記号論の観点からひたすら説明していく記事です。





竜ヶ崎蝶子と海野幸のフォアハンド


『YAWARA!』のテニス版、『Happy!』。

浦沢作品と言えば、『MONSTER』や『20世紀少年』など、
テーマ性の強い作品が知られる一方で、
『YAWARA!』のように読みやすく読後感も爽やかな、
変幻自在の作風が大きな特徴です。


Happy!

『Happy!』は、そんな代表作と比較すると、
見どころが少なかったりします。

同じテニスを題材にした『ベイビーステップ』と比較しても、
スポーツ選手同士の駆け引きは薄く、
テニス漫画として見るには物足りません。


ではなぜ、私が『Happy!』をイチオシするのか。

それは、浦沢直樹せんせいの画力の高さを説明するのに、
この作品がうってつけだからです。


まずはライバル・竜ヶ崎蝶子と、
主人公・海野幸の打ち方の違いを見ていきましょう。




竜ケ崎蝶子
 第5巻 SET.3
 竜ヶ崎蝶子のフォアハンド

竜ヶ崎蝶子は、テイクバックの位置が体の真後ろ、
左手は正前に置いて体を捻る形を作り、
後ろから前への体重移動でボールを押し出しています。

画像では両足が開いているように見えますが、
打つ瞬間には右足と左足が縦に揃っているので、
ベースラインに対して垂直に構える、
スクエアスタンスの選手と見て良いと思います。


海野幸
 第5巻 SET.1
 
海野幸のフォアハンド

海野幸は、竜ヶ崎蝶子と比較して、
テイクバックの位置は斜め後ろ、左手は斜め前と
より体を捻り、ボールに力が伝わるように構えていますが、
打ち方は竜ヶ崎と同じスクエアスタンスです。

日本人同士の試合だと、相手のショットがそこまで速くはないので、
オープンに構えて体の回転だけで打つより、
しっかりと体重移動を行った方が強い球を打てます。




が、

それは対戦相手が日本人の場合。


外国人選手の速いショットに対して、
しっかり踏み込んで打とうとしたら、普通は振り遅れます。

90年代の日本人女子テニス選手のめざましい活躍は、
外国人選手と戦う技術を会得する為の、
弛まぬ鍛錬の歴史でもありました。


11巻で若貴姉妹との国内最終戦を終えた後、
アメリカに渡った海野幸のフォアハンドは、
更なる進化を遂げる事になります。



竜ヶ崎と海野を分けた差


海野幸海野幸
渡米前     渡米後

最初に変化が現れたのが、
テイクバックの位置が腰の辺りまで下がり、
ダウンスイングがレベルスイング(水平)になった事です。

レベルスイングで打ち返すと、ボールにスピンがかからず、
相手の球の勢いをそのまま返せます。

鳳唄子が海野に授けた魔球、
ロイヤル・フェニックス1号の練習のおかげなのか、
低くて鋭く伸びる直線的なボールを
ネットスレスレにコントロールする打ち方になってます。

最終23巻でタネ明かしされた、
ライジングショットを打つ為の必須技術が、
12巻頃から作画に現れているんです。


フォームの変化は、これだけではありません。



海野幸
 第13巻 SET.7
 USオープン 一回戦

コーチのサンダー牛山に
「イヤンバカンショット」と名付けられた、
ボールの上がりっぱなを叩くライジングショット。

ボールがバウンドしてすぐのタイミングに
スクエアスタンスを取って打つのは、
先に述べたように、並の選手なら振り遅れます。

海野の場合、相手の返球に振り遅れないようにする為、
持ち前の脚力を活かしてワンテンポ早く打点に入り、
「1、2、3」から、「1、2」のタイミングで、
素早くテイクバックの形を作ろうとしています。


13巻からのフットワークの変化は、
後の19巻でコーチの口から詳細に説明されています。


サンダー牛山
サンダー牛山
 第19巻 SET.11
 サンダー牛山の解説


この打ち方は…!

伊達公子さんのフォームにそっくりじゃないですか!



単に素早く打ち返すのではなく、
限界ギリギリまで前に踏み込んで返球しています。

より前の打点から直線的な球を返せば、
相手に反撃の間を与えず、有利に試合を運べる事でしょう。


伊達さんもライジングショットが得意でしたね。



アメリカに渡った海野がどれだけ成長を遂げたのか、
竜ヶ崎蝶子と再度比較してみましょう。


竜ケ崎蝶子 海野幸
竜ヶ崎蝶子  海野幸


両者のフットワークに注目すると、
竜ヶ崎は重心が踵に掛かっているのに対し、
USオープン以降の海野は、重心がつま先の内側に掛かっています。

後ろから前に体重移動しながら打つ竜ヶ崎に対し、
海野は最初から前に体重が掛かっているという意味で、
どちらが相手の強打に素早く反応できるか、一目瞭然ですよね。

日本に居た頃は、その強靭な足で最後までボールを追い、
ラケットに届かなくても飛びついていましたが、
13巻以降は、外国人選手のパワーにも打ち負けない、
攻防一体のカウンターショットを手に入れた事が、
作画にはっきりと現れています。


つまり、この浦沢直樹という作者、
国内レベルに留まる凡才と、世界レベルの天才の差を、
足のさばき方だけで描き分けているのです。




4スタンス理論

こうした足さばきの違いについては、
『GRAND SLAM』という野球漫画の中で説明されています。

足裏にある4つの重心軸のうち、どこに重心を置くかによって、
最適なフォームを模索していく方法論を、
4スタンス理論と言います。


4スタンス理論を説明している漫画は他にもあれど、
絵だけで説明しきった漫画家を、
私は浦沢直樹以外に知りません。


『Happy!』は、ただのテニス漫画ではありません。

海野幸のフォームの変化を、
1巻から通じて収め続けた記録漫画です。



サブリナ・ニコリッチのフォアハンド


芝の女王、サブリナ・ニコリッチに至っては、
より完璧なフォームの持ち主として描かれています。


サブリナ・ニコリッチ
 第23巻 SET.2 
 サブリナ・ニコリッチのフォアハンド


サブリナ・ニコリッチのテニス経歴は、
マルチナ・ヒンギスのものを拝借したと思われますが、
両者のフォームは全然違います。

ニコリッチのフォアハンドは、
ベースラインに対して水平に構えるオープンスタンスで、
テイクバックが海野や竜ヶ崎より小さく、
コンパクトに振り抜いている事が分かります。


サブリナ・ニコリッチサブリナ・ニコリッチ
 第23巻 SET.4    第23巻 SET.8

しかも判を押したように毎回同じ。

重心がつま先の内側にかかっており、
前に出した左手が地面ではなく、体の方を向いています。

体の回転だけで強いボールを打つには、
左手を体に引き寄せ、回転運動を促進させる事が重要です。
この時、手のひらが体の方に向いていると、
引き寄せる力にロスが無くなります。


このフォームは、錦織圭やノバク・ジョコビッチと同じです!


しかもニコリッチはバックハンドも片手打ち。

フォアハンドがジョコビッチで、バックハンドはフェデラーっすか。
何なんすかこの人。



正直言って、海野のスタンスから放たれるライジングショットは
バズーカみたいな返球されるだけなので、
ニコリッチとめっちゃ相性悪いんですが、よく勝てたね。

そのバズーカ砲を足で拾ってたって事ですか…。
どんな反射神経してんのよ…。



絵だけで「天才」を表現する


マンガ大賞2017を獲得した、
『響~小説家になる方法~』という作品を見てみると、
主人公・鮎喰響の天才性を表現するのに、
本棚を倒したり、顔面に蹴り入れたり、マイクを投げたりするしかなく、
主人公の周囲の人達が「天才」だと説明してくれなければ、
彼女の小説の凄さが読者に伝わらなかったであろう、
どう表現しようもない難点を抱えていました。


「天才」を描いた漫画は、

  • ピアノの森
  • DEATH NOTE
  • Q.E.D
  • ブラックジャック

などなど、数多く存在しますが、
「天才」を表現するというのは、とても難しい事です。

まして絵だけでそれを伝えるとなると、
『ガラスの仮面』36巻の水のエチュードで、
水の竜神を演じた天才・北島マヤと、
マヤの演技に絶望した姫川亜弓くらいしか出てきません。


『Happy!』は、わずかなフォームの違いで
「天才」と「凡人」を描き分けた、
稀有な例として挙げる事が出来ます。

これを容易くやってのけた浦沢直樹という人は、
まさに天才と言うべき作家でしょう。




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